2度目の入院からのリカバリーへ
無事に50日で退院した私は、恩師となる先輩が施設長として働く福岡の社会福祉法人で働き始める。
先ずはボランティアとして働き始め、その後地域活動支援センターⅠ型のピアスタッフとして働き始めた。
障害を公開してピアスタッフとして働くのは初めての経験で、何とも言えない居心地の良さを感じながら働いていた。
先ずは地域活動支援センターⅠ型の職員と、生活支援課から委託を受けていた退院促進事業として働いていたが、同じ法人にあった指定特定相談支援事業所の職員がいきなり退社し、明日から相談支援事業所で働いてねと無茶苦茶な人事。
その後自立支援協議会(福岡では地域生活支援協議会と呼称)のネットワークづくりや計画相談を担当する相談員として働いた。ちなみにこの平成27年時点でまだ相談支援専門員の資格は持っていなかったけど、当時計画相談が居宅介護利用者(いわゆるヘルパー利用者)に必須になったことで、相談支援事業所も相談支援専門員も足りず、行政も名前貸で計画を作ることに目をつぶっていた状態。
その後就労継続支援B型と自立(生活)訓練に異動になり、そこでお世話になった上司が独立のために退職して後任の管理者になる。
ピアサポート専門員の資格に携わる
話は前後するんだけど、福岡の社会福祉法人で働き始めたころ、南高愛隣会の東京事務所の武田牧子さんや精神保健福祉士の資格を作った門屋充郎さんが仕掛け人になって、ピアサポートの資格を作ろうという動きがあり、そこの委員に呼ばれることになった。
その後ピアサポート専門員と称して全国で認定資格の研修を行いながら、研修のテキストを作ったり、研修の内容をみんなで精査したりを土日の休みにやるようになった。
その関係で精神科リハビリテーション学会や、いのちの電話や支援の三角点の研修に講師として呼ばれるようになり、多忙を極めた時期でもあった。
その資格は今では地域生活支援事業の中で国と県がお金を出してできるように制度化され、令和3年からは加算の対象になりそうな感じだけど、それはまた別のお話。
退職から3度目の入院
上司の退職により管理者に任された俺は、退職した上司についてった職員がいたこともあって、人手不足の中懸命に働くも、働きすぎてそう状態になって、休むように言われ、そのまま退職。
その後福岡の別の社会福祉法人で働くも、またもや人間関係で揉めて入院する。
くしくも3人目の子供も生まれており、この時はさすがに離婚の危機。
妻も働いていなかったから、家を引き払って俺も妻もお互いの実家へ。子どもは妻の実家へ。
そして現在まで
その後実家の近くの久留米の地域活動支援センターⅠ型で働き始め、相談支援事業所に異動になり、無事相談支援専門員の資格も取った。
その後独立した上記の上司に引き抜かれたのは令和2年の11月。
最初はドタバタしたものの、人間関係がいいから働きやすく、残業が多くてもストレスは少ない。
このブログではそんな精神保健福祉士のピアスタッフが、支援の中で日々感じたことやピアサポートのこと、福祉・医療制度のことや子育てのことなどを綴っていたい。
ピアサポートに興味のある専門職や、障害を抱えてこれからピアサポーターとして働きたいそんなあなたに届くように祈って不定期に更新していく。